一九四五(昭和二〇)年八月、第二次大戦が終結して、日本の各都市は住宅・上水道・下水道・電力・ガスなどの様々な復興作業に追われることになる。それらの作業の中で、戦後いち早く市内から出るごみの処理体制を復活したのは大阪市であった。一九四八年には、寝屋川焼却場の第三工場・第四工場、木津川焼却場の第三工場を復旧して、一日当たり一五〇トンのごみ焼却を再開。大阪市清掃局は、当時の大阪市のごみの量を、一日平均三九〇トンと算定している。そしてこのころから、日本では国民の生活状態が安定して個人消費が拡大し、産業が活発になったことで、各都市で排出されるごみの量が多くなり、その処理に追われるようになってきた。一九五四年、一九〇〇(明治三十三)年に公布された『汚物掃除法』が廃止されて、新しく『清掃法』が制定された。この法律では、法制定の目的を「汚物を衛生的に処理し、生活環境を清潔にすることにより、公衆衛生の向上を図ること」と定めており、汚物の定義を「ごみ、燃えがら、汚でい、ふん尿及び犬、ねこ、ねずみ等の死体」として、『汚物掃除法』の「塵芥」の「ごみ・燃えがら・汚泥」から変わっている。東京都が、一四号埋立地で都内の二三区から出るごみの埋立処分を開始したのは一九五七年のことだった。後にこの埋立地は「夢の島」と呼ばれるが、一九六七年までの一〇年間に約一〇〇〇万トンのごみが埋め立てられた。また八月には名古屋市鶴ケ谷焼却場が竣工した。この焼却場は、一日当たりの焼却能力が七五トンの自然通風式のものであるが、日本で初めてのコンベアによる灰出し設備を設置した。そして、日本のごみ処理は、一九七〇年に『廃棄物の処理及び清掃に関する法律』が制定されるまで、一九五四年に制定された『清掃法』で行われることとなった。